三津浜歴史探訪

その16「三津には人情通うお風呂屋さんがたくさんあった」


昭和の時代、三津には映画館が5軒、ボウリング場が2軒ありました。私の記憶に残っているのは映画館2軒とボウリング場2軒。しかし、それより銭湯がとにかくたくさんありました。もちろん当時は古い家も多く、内風呂が少ない時代ですから、みんな銭湯に通うのがあたりまえでした。小学2年生まで祖母に連れられて女湯に入っていたものですから、同級生の女の子に会ったりなどは、しょっちゅうでした。もちろん当時は意識もしていないし、何とも思ってなかったです。3年生以後は一人で男湯に行きますが、逆にお父さんと一緒にはいってくる同級生の女の子もいました。本当に大らかな時代でございました。
三津の銭湯
その銭湯ですが、私が知っているかぎりで三津には、福助湯(心斎町)、だるま湯(神田町)、やなぎ湯(住吉町)、菊水湯(住吉町)、朝日湯(朝日通)、玉の湯(三津2丁目)、ともう1軒が思い出せませんが、同じ町内の幼なじみと全部制派していました。古三津や高浜方面にも何軒かあったようですが、川を越えてまでは行かなかった。で、私たちが日常的に利用していたのが、近所にあった福助湯(写真)。風呂桶には石けん、シャンプー、タオル、水中メガネ、スーパーボール、時にはみかん等々、何しに行きよん的なフル装備で、夕食後から閉店の10時まできっちり遊んでいました。もとい、入浴していました(笑)。客がいなくなるとスーパーボールが炸裂し、知り合いのおじさんが入ってくると、私が電機風呂に入り、入っていない友達と手をつなぎ、そのおじさんの肩に手を置くとしびれるという悪さをしたりと、まさにお風呂天国。しまいには風呂屋のおばちゃんが「あんたらいつまで入っとんぞね、もう帰って」と怒られる始末。しかも、怒られたのは、20回や30回ではありませんでした…。
今では神田町のだるま湯だけが唯一残っていますが、それ以外のお風呂屋さんは全て無くなってしまいました。地元の人たちが挨拶し、汗を流し、様々な話しや笑い声が聞こえ、それこそお風呂屋さんというのは、まさに裸の付き合いと言えるコミュニケーションには最適の場所だったと思います。内風呂に変わってそういった習慣がなくなったのもまた事実ですよね。

その15「梅津寺にお風呂があった話」

私たちが小さい頃、夏と言えば「海」でした。中でも梅津寺海水浴場は、夏休みともなると、これでもかというくらい人がいたものです。その梅津寺海水浴場には、伊予鉄高浜線の線路の反対側に、お風呂がありました。海水を引き込んで沸かしている「塩湯」で、海で唇が紫色になるまで泳いで、帰りにお風呂に入って帰るという記憶が残っています。
梅津寺の塩湯
今では、海水浴場としての機能も、遊園地も無くなってしまいましたが、こうやって思い出は記憶の彼方にしまわれてしまうんですよね。時代の流れとともに年齢をひしひしと感じてしまいます。
ただ、駅のホームのフェンスには、いまだにハンカチが結びつけられ、風に揺れています。せめてこの風習?くらいは残って欲しいなと思う今日この頃です。

その14「梅津寺に飛行場があった話」

大正の頃、堺市の日本航空輸送研究所は、海軍に働きかけて援助をとりつけ、水上機による瀬戸内海運航を計画します。堺市の海浜に基地を設け、海軍から中古水上機の払い下げと現役操縦者の割愛を受けて、まず大正11年11月堺~徳島間週一往復と、堺~高松間週三往復の定期運航(主として貸物)を開始した。次いで同12年末から非公式郵便輸送を、昭和3年からは本格的旅客輸送を始めます。この間路線の延長に努力し、高松線を大正13年に今治へ、14年に松山へ、15年に大分へ、昭和2年には別府まで延ばした。
 こうして県内にも今治と松山に水上飛行場ができたわけで、旅客扱いが始まった昭和4年(1929)における松山の発着場は、当初は温泉郡三津浜町広町(現松山市三津3丁目)の海岸でしたが、同年8月から梅津寺の伊予鉄道埋め立て地北隅に事務所と格納庫が完成し、移転しました。梅津寺の飛行場は、当時松山周辺で唯一の民間飛行場として親しまれました。昭和9年当時の広告には大阪、高松、松山間を往復一便(昭和10年に別府まで延長)、松山~大阪間の運賃が18円であると記載され、貨物輸送、郵便物の取扱いが行われていることがわかります。使用機は当初3人乗りないし6人乗りであったとされていますが、昭和11年には19人乗りのサザンプトン艇「きりん」号が就航し、エアガールの空中サービスが話題になったと伝えられています。
三津浜付近の水上飛行機離水風景
 なお、戦後の昭和34年(1959)10月、日東航空株式会社が新居浜市黒島と大阪堺を結ぶ航空路を開き、水陸両用アッター機(定員11名)を1週3便就航させました。のちグラマンマラード機にかわり、黒島~大阪空港間毎日二便制となりますが、40年9月末をもって休止され現在に至っています。
 ちなみに「うちのおじいちゃんとおばあちゃんは、親たちが決めたお見合い相手が嫌で、梅津寺から飛行機に乗って大阪へ駆け落ちしたんよ」と本人の葬式の日に伯母から聞いて、みんなが「え〜っ!」と声を上げました。ハイカラなお二人だったようです。

その13「御船手衆の生活を支えた辻井戸」

昨年、三津浜小学校に残るお茶屋井戸の記事を書きましたが、三津にはもう一つ歴史のある井戸が残っています。三津住吉商店街のほぼ西の端にある「辻井戸」で、今は小さな公園になっています。この井戸の歴史も古く、寛永十二年(一六三五)に桑名から松山藩に転ぜられた松平定行が御船手四百戸の水を確保しようと掘らせたもので、当時、北浜町、南松前町、北松前町、江の内が交差する四つ辻に位置したのでこの名がつきました。明治以降も生活用水として重宝され、桶で売り歩いた時期もあったといいます。前にも書きましたが、交易性の高い立地と、塩田、それに良質の水があったため、三津には、酒、酢、味噌、醤油などの醸造蔵が軒を並べたわけなのです。
三津浜住吉町の辻井戸
しかし、みなさん不思議だと思いませんか? お茶屋井戸も辻井戸も当時は極めて海に近い場所にあったのに、なぜ良質の水が湧いたのでしょうね? 学の無い私の考えでは掘っても、掘っても海水しか出て来ないイメージがあります…。

その12「三津厳島神社は総本社宮島より古い」

 厳島とは「神に斎(いつ)く(=仕える)島」が語源。あまりにも宮島(世界遺産ですからね)が有名すぎて割と知られてませんが、厳島神社はなんと全国に約500社もある。もちろんその殆どが宮島以後に創建されたもの。しか〜し、三津をなめてはいけません。三津厳島神社の歴史は、崇峻天皇(第32代/592年12月崩御)の時代に、筑紫(現福岡県)、宗像大社から三女神(市杵島姫命/いつきしまひめのみこと、湍津姫命/たぎつひめのみこと、田心姫命/たごりひめのみこと)を勧請したことが始まり。対して宮島は、推古天皇元年(代33代/593年に在位)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まるとされる。文献での初出は弘仁2年(811年)まで下る。
 つまり、三津厳島は592年以前に存在しており、宮島は翌593年以後に建てられたと言うことになります。しかし、当時、三津厳島は「三津浜大明神」として祀られており、724年に宮島の神を勧請されてから厳島神社と称することになります。

このように三津厳島神社はとても歴史があるのです。大国主命(おおくにぬしのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)、塩土神(しおづちのかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、蛭子命(ひるこのみこと)、保食神(うけもちのかみ)も合祀されており、菅原道真もお祀りされています。受験生のみなさん、お参りしてね。
 それから、境内に表忠碑という大きな石碑がありますが、この文字(揮毫)は秋山好古のものです。
 ちなみにこの厳島神社には、出雲大社や太宰府のような分祀、分院という考え方はありません。