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その11 「今も残る古い建物と歴史」

近世初め、三津浜は小さな漁村に過ぎなかったのですが、慶長八年(一六〇三)、松前城主であった加藤嘉明が松山に移るのに伴って三津浜の港を改修し、城下町松山の外港としました。御船場(御用船の基地)を造り、船奉行を置き、松前の水軍根拠地を移すのと同時に、松前の商人たちも移住させて港町での商いを奨励したことから、このまちが発展し始めます。その後、明治、大正、昭和と歴史を数え、色々な建物が、様々な形で残っていたりします。
三津の古い町並み
私たちが記憶している限りでも、塗籠(ぬりごめ)といわれる漆喰(しっくい)の格子窓や海鼠壁(なまこかべ)の土蔵がある商家、民家、ハイカラな洋風、擬洋風(ぎようふう)の商店、病院、倉庫など、江戸期から昭和期までの、それぞれの時代の多様な建築物が古い町並みを形成していました。現在は都市化によってそうした建物も姿を消しつつありますが、その一方で保存しようと活動をする人や団体により、新たな形で活用され始めてもいます。

その10「三津には四国最大級のグラウンドが存在した」

総工費二千数百万円(当時)をかけて、大正11年2月大可賀の海岸地区に三津浜グランド(当時の表記)が竣工した。3,600坪の広さを有するグラウンドは当時四国最大でした。前面は伊予灘の波に面し温泉郡の島々を眺め、左手には大可賀の松原を抱え、背後は道後平野に連なり、とても眺望が良かったそうです。場内には庭球コート、相撲場、大弓場の他、各種競技場が設備。大正11年11月24日には皇太子殿下(昭和天皇)が行啓、温泉郡青年団によって連合体操が大々的に行われ、陛下がご観覧されたとのことです。
大正11年三津浜グランド
今で考えると3,600坪ってそんなに大きいイメージはないですよね。坊っちゃんスタジアムのグラウンド面積が4330坪強なので、その中にこれだけの設備をすることで考えれば、むしろちょっと狭いのではと感じてしまいます。でも、当時としてはビックリするほど大きかったんでしょう。また、三津にこういった施設等が多かったのも、海の玄関口であったからこそかも知れませんね!

その9「お茶屋井戸」

松山市立三津浜小学校の校舎南側のグランドの脇に、藩政時代から「お茶屋井戸」と呼ばれている井戸があります。江戸時代(1603~1867)、徳川幕府は全国の大名を治めるため参勤交代という制度を設けます。松山藩の大名は当然のことながら江戸へ行くのに船を利用しなければなりません。船着き場は三津の港でですから、以前(その5)ご説明した通り、帆船までの送り迎えを艀(はしけ)とう小舟でおこなっており、潮待ちや風待ちの休憩場所が必要でした。そこで、休憩地として適したところを模索します。ところが、三津浜は海が近く真水の出る井戸がなかなか見つかりません。苦労の末、やっとこの場所を見つけ出し良質の真水が出たので井戸を掘り、ここに休息場所として「お茶屋」を建てたのです。当時の建物は三階建ての立派なものだったと伝えられています。
三津浜小学校内に残るお茶屋井戸
幕末に松山藩の学校である明教館(秋山兄弟、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐などが通った学校)の分校となり、明治20年(1887年)三津浜尋常小学校になってから現在に至っています。

その8「三津の渡し船」

以前、正しくは松山市道高浜2号線だとお教えしましたが、この渡し船について今回は触れてみます。
起源は、応仁元年(1467年)、湊山(現港山)城主の河野通春が、城兵の糧食は地元の民から買い上げよとし、米、野菜、魚などを調達するために、三津と湊山を船で結んだのが始まりです(朝市の記事でも触れましたね)。江戸時代になって、三津は松山の外港となり、諸国の船が頻繁に出入りするようになります。これに伴い朝市も本格的なものになり、渡し船も重要度を増し、番所の管理下におかれて運行するようになります。
大正の頃までは、「棹」で操られ、その後「艪」で漕がれるようになります。写真は昭和40年のものです。
昭和40年代の三津の渡し船
昭和45年からエンジン付きの船に変わり、現在に至ります。毎日、朝7時から夜7時まで、両岸80mを何度となく行き来し、乗りたい人を見つけると、向こう岸にいても迎えにきてくれます。年中無休です。私たちも、夏休みと言えば梅津寺か黒岩で毎日遊んでいたものですから、そのために必ず利用していました。
船長(船頭さん)にも、すっかり常連扱いされてました(笑)。今でも頑張っておられて、何十年もこの渡しを見守ってきた方なんですよ。

※注 黒岩は遊泳禁止です。遊ばないように。

その7「武士道を貫いた『烈女松江』の悲しい物語」

 今から二百年ほど前のことである。
大洲藩士の井口瀬兵衛は故あって浪人となり、三津久宝町に移り住んでこの地の若者たちに剣術や学問を教え、ようやく糊口をしのいでいた。
 この瀬兵衛に十八歳になる美しい娘、次女松江がいた。松江は、門弟や村の若者たちの憬れの的であったばかりでなく、病身の母や弟妹の世話にも骨身を惜しまない近所でも評判のやさしい娘だった。
 瀬兵衛の剣術の弟子に岩蔵という若者がいた。岩蔵は松江を妻にしたいとたびたび瀬兵衛親子に申し入れたが、その性格を好まなかったのか、松江は首を縦にしなかった。これを根に持った岩蔵は、あろうことか松江を略奪しようと瀬兵衛の留守を狙って不良仲間とともに松江の家を襲った。夜なべ仕事をしていた松江は、乱暴な音とともに侵入してきた岩蔵たちに驚いたが、武士の娘らしく毅然とした態度で若者たちの不作法をなじり、用があるなら父のいるときにと諭した。だが、今宵こそは松江をわがものにしようとやってきた岩蔵たちはそのことばを聞き入れず、無理やり連れ出そうとした。
 松江は身を守ろうと護身用の短刀を取り出し、岩蔵に斬りつけた。美しくおとなしい娘が斬りかかってくるなど思いもよらなかった岩蔵は不意をつかれ、胸を刺されて倒れた。不良仲間は、そのありさまに恐れをなし、一目散に逃げ帰った。
 我に返った松江は、岩蔵の変わり果てた姿に、とんでもないことをした、たとえ悪人でも人を殺めたことは大罪で許されることではないと自害をしようとしたとき、両親が戻った。松江はすべてを語り、「人を殺した以上、死は覚悟しています。入牢の恥を見るより、せめて父上のご慈悲で討たれとうございます」と父に申し出た。瀬兵衛は胸が張り裂けそうだったが、それが武士の道だと松江を浜辺に連れていき、土壇をこしらえてその上に座らせた。松江は西に向かって手を合わせ、両親に別れのことばを述べ、父の刃に散った。文化十年(一八一三)十二月八日、北風の冷たい夜だった。
 この話を聞いた松山藩主・久松定通は、松江の葬儀にあたり、米五俵を与えて貞節を守ったことを称えた。さらに父瀬兵衛を松山藩士に取り立てようと申し入れたが、瀬兵衛は「武士は二君に仕えず」という固い信念で、松山藩主にお礼を申し上げ、丁重に辞退した。
 このことを伝え聞いた大洲藩主は「松江は武家の娘の鏡である。また、瀬兵衛の態度も立派である」といたく感動された。そして、松江の死後五年がたった時、瀬兵衛は大洲藩に帰参することが許され、念願であった家の再興を果たした。
 それから約百年後の明治四十三年(一九一〇)、三津に愛媛女子師範学校が開設され、松江は女子師範の鏡としてその遺志が校風に反映された。
烈女松江こと井口松江の墓碑
 松江の墓は大可賀の共同墓地にあったが、今は三津公園(大可賀公園)の西隅に松江堂が建てられ、墓をはじめ、明治三十六年に建立された顕彰碑もそばにある。

※井口松江(1795~1813年)