その7「武士道を貫いた『烈女松江』の悲しい物語」

 今から二百年ほど前のことである。
大洲藩士の井口瀬兵衛は故あって浪人となり、三津久宝町に移り住んでこの地の若者たちに剣術や学問を教え、ようやく糊口をしのいでいた。
 この瀬兵衛に十八歳になる美しい娘、次女松江がいた。松江は、門弟や村の若者たちの憬れの的であったばかりでなく、病身の母や弟妹の世話にも骨身を惜しまない近所でも評判のやさしい娘だった。
 瀬兵衛の剣術の弟子に岩蔵という若者がいた。岩蔵は松江を妻にしたいとたびたび瀬兵衛親子に申し入れたが、その性格を好まなかったのか、松江は首を縦にしなかった。これを根に持った岩蔵は、あろうことか松江を略奪しようと瀬兵衛の留守を狙って不良仲間とともに松江の家を襲った。夜なべ仕事をしていた松江は、乱暴な音とともに侵入してきた岩蔵たちに驚いたが、武士の娘らしく毅然とした態度で若者たちの不作法をなじり、用があるなら父のいるときにと諭した。だが、今宵こそは松江をわがものにしようとやってきた岩蔵たちはそのことばを聞き入れず、無理やり連れ出そうとした。
 松江は身を守ろうと護身用の短刀を取り出し、岩蔵に斬りつけた。美しくおとなしい娘が斬りかかってくるなど思いもよらなかった岩蔵は不意をつかれ、胸を刺されて倒れた。不良仲間は、そのありさまに恐れをなし、一目散に逃げ帰った。
 我に返った松江は、岩蔵の変わり果てた姿に、とんでもないことをした、たとえ悪人でも人を殺めたことは大罪で許されることではないと自害をしようとしたとき、両親が戻った。松江はすべてを語り、「人を殺した以上、死は覚悟しています。入牢の恥を見るより、せめて父上のご慈悲で討たれとうございます」と父に申し出た。瀬兵衛は胸が張り裂けそうだったが、それが武士の道だと松江を浜辺に連れていき、土壇をこしらえてその上に座らせた。松江は西に向かって手を合わせ、両親に別れのことばを述べ、父の刃に散った。文化十年(一八一三)十二月八日、北風の冷たい夜だった。
 この話を聞いた松山藩主・久松定通は、松江の葬儀にあたり、米五俵を与えて貞節を守ったことを称えた。さらに父瀬兵衛を松山藩士に取り立てようと申し入れたが、瀬兵衛は「武士は二君に仕えず」という固い信念で、松山藩主にお礼を申し上げ、丁重に辞退した。
 このことを伝え聞いた大洲藩主は「松江は武家の娘の鏡である。また、瀬兵衛の態度も立派である」といたく感動された。そして、松江の死後五年がたった時、瀬兵衛は大洲藩に帰参することが許され、念願であった家の再興を果たした。
 それから約百年後の明治四十三年(一九一〇)、三津に愛媛女子師範学校が開設され、松江は女子師範の鏡としてその遺志が校風に反映された。
烈女松江こと井口松江の墓碑
 松江の墓は大可賀の共同墓地にあったが、今は三津公園(大可賀公園)の西隅に松江堂が建てられ、墓をはじめ、明治三十六年に建立された顕彰碑もそばにある。

※井口松江(1795~1813年)